すばらしい新世界/第一話
「
」
柔らかな声に呼び止められ、
は足を止めた。一緒にいた同期たちには先へ行くように告げてから、すぐさま声の方へ取って返す。……なんとなく、そんな予感はしていたのだ。彼女に目をつけられてからというもの、あれに捕まらず一日を過ごせることなんてほとんどなかった。学年が切り替わって一週間、新入生が入る今日でさえそれは変わらない。晴れやかな顔で校門を潜ってくる新入生たちを一瞥して、
は吐き出しかけた溜息を飲み込んだ。
「相変わらず暇そうね。ちょうどいいからあたしが仕事をあげる。嬉しいでしょう?」
「はい。光栄です、
芳花様」
を呼びつけたこの少女は、『特待生』の
黄月芳花だ。学園の経営者の血族だとか、このあたりの地主の娘だとか、とにかくこの学園に特別なコネクションを持っていると噂されており、その傲慢な振る舞いも確かならぬ噂の後押しをしている。特待生に合格したのもそのコネクションのおかげではないか、といった話も特待生の間では囁かれていたが、真偽の程はどれも定かではなかった。
「あたしの部屋からメイクポーチ取ってきて。十分以内ね」
はいスタート、と犬でも躾けるように手を叩いて、黄月芳花はにっこりと笑った。アイドルとして正しい教育を施されている『特待生』だけあって、その笑みは愛らしく無邪気で、しかし隙がない。指示を受けた
はぎこちない作り笑顔で「かしこまりました」と応じると、すぐさま特待生の寮へ向かって駆け出した。
今日はこの学園の入学式だ。特待生も非特待生も、多くの新入生がこの学園に初めて足を踏み入れる。普段にはない雑用もあれこれと転がっていて、
も駆り出されている最中だった。そもそも非特待生の
が暇でいられるわけがないのだが、そんなこと気にも留めないのが特待生という生き物である。
芳花はそんな特待生の中でも人を使うことに慣れた人間で、非特待生を犬のように走らせることになんの躊躇もなかった。去年から
をお気に入りとしてそばに置いているのも、足が速くて従順だから、程度の理由だ。
より行動が速く大人しい新入生がいれば、すぐにでも
を切り捨てるだろう。人を人とも思わない、非特待生を同じ人間と認めない。それがこの学園の特待生で、黄月芳花だった。
特待生の寮は学園の校舎群からも近い場所にあるため、往復するのはたいした労力ではない。とはいえ、十分以内で往復してなおかつ室内から忘れ物を取ってくるとなれば、元陸上部の
でもかなり本気で走らなければ間に合わないだろう。
は器用に人波をすり抜けて女子寮に着くと、寮母への挨拶もそこそこに階段を一段飛ばしで駆け上がる。人影がないことをいいことに廊下もダッシュして、目的の部屋の前で止まった。深呼吸をして息を整え、ついでに乱れた前髪も整えてからドアをノックすると、少ししてから芳花のルームメイトが応じる。前髪にヘアクリップが留まっている様子を見るに、メイク中らしい。
「なに、芳花……の、お使い? 忘れ物?」
「お支度中にお邪魔して申し訳ありません。芳花様のメイクポーチを取りに来ました」
「そ、ご自由に」
それきりルームメイトは興味をなくしたようで、さっさと机に戻ると広げた鏡を覗き込む。さまざまな角度から目元のチェックをしているあたり、今日はなにか仕事があるのだろう。
はそちらの邪魔にならないよう芳花の机やベッド周りを探し、ようやくクローゼットの引き出しの中に目的のものを見つけた。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。失礼します」
返事などないのは百も承知だが、なるべく深く頭を下げてから部屋を後にする。ここまでで約七分。行きと同じペースで走り抜けることができれば目標タイムに届くだろう。
は腕時計を確認すると、急いで階段を駆け下りた。
「……なぁ~んだ、間に合っちゃったんだ。遅かったらお昼抜きにしてあげようと思ってたのに。ま、ご苦労様」
ポーチを受け取った芳花はつまらなさそうに言うと、ひらひらと手を振って
を追い払った。中身も確認せずにいるあたり、目的はポーチではなく
を走らせることだったのかもしれない。
芳花はこうした思いつきで
を振り回すことが好きなようで、あれを取って来いだの、これが欲しいだのと、些細なことで
を呼びつける。そして
がきちんと命令通りにこなせばつまらなそうに追加の指示を言いつけ、うまくできなければ嬉々として罰を科すのだ。
がその罰に泣いたり困った顔を見せたりしようものなら、途端に目を吊り上げて「あたしは非特待生のあんたを可愛がってあげてるのに、何が不満なの?」と凄むのだから、まったくたちが悪い。
特待生の反応としては先程のルームメイトのようなドライなものが一般的であることを考えれば、芳花のそれは確かに可愛がりと言えなくもないのだろう。しかし標的となった
からすればむしろいじめだ。指示をこなしたところで褒められもしなければ他の雑用が増やされ、少しでも逆らえば厳しく叱責される。しかも特待生の行動を諌めるものは誰一人として居らず、助けてくれる味方もいない。
だから言うことを聞くしかない。必死になって走るしかない。罰を受けるより、雑用が増えるほうがずっとマシだから。
に選べるのはその二択しか与えられていないから。
「そーだ、入学式が終わるまでにあたしの部屋掃除しといてよ。ゴミ一つでも落ちてたら許さないから」
「……かしこまりました」
「すぐにやってよね」
「はい」
芳花が講堂へ入っていくのを見送ってから、
はこっそり溜息を吐いた。本当ならすぐに向かうべきは第二講堂で、非特待生の新入生を案内しなければならない。先程一緒に向かっていた子たちは、教師にきちんと事情を伝えてくれただろうか……考えてから、
は再び溜息を落とす。考えるまでもないことだった。
非特待生の間であっても、気を許してはならない。この一年で
が学んだことといえば、そんな悲しい競争社会のルールだけだ。隙を見せればすぐに蹴落とされるし、他者に非情になれないものは自滅していく。他人を踏み躙り、自分に許された利だけを追求することが、この学園での正しい生き方だ。今頃、
が寝坊したとかサボったとか、そんな嘘が教師の耳には吹き込まれている。
が芳花の名前を出して、教師が芳花に確認を取れば済む話だというのに、そうした
行き違いはよくあることだった。
沈みかけた気持ちを追い出すように、
は短く息を吐く。さっさと掃除を済ませてしまおうと、寮へ踵を返した――その時だ。
「おい、何やってんだよ!」
咎めるような鋭い声が、
の鼓膜を突き刺した。まるで自分が叱責されたように感じて恐々と振り向けば、四、五人ほどの集団に向かっていく一人の男子生徒がいる。声を発したのはその男子生徒で、彼が声を向けたのはその集団らしい。自分が責められたわけではないことにほっとしてから、
はその集団を注意深く観察した。集団はすべて特待生の男子で、校章を見るに三年生だ。その足下には薄汚れた制服を身に纏う男性が腹部を庇うようにして蹲っている。教師からは決して近付かないように言い含められている謎の人物――一部の先輩に「長老」などと呼ばれている男だ。
「はあ? なんだよお前……一年か? しかもそのネクタイ、柄無しじゃねえか」
勇敢にもリンチ現場に割って入ったのは、この学園のルールを何も知らない一年生。しかもタイが無地ということは非特待生だ。特待生の集団は新しい玩具を見つけたとばかりに口の端を釣り上げ、残忍な笑みを浮かべた。
「新入生が随分と威勢がいいな。先輩に対する礼儀ってものを、義務教育で教わらなかったのか?」
「生憎とあんたたちみたいな奴らに払う敬意は持ち合わせてねぇよ! いいから早くその足をどかせ!」
「……っ!」
他人事ながら、
はさあっと血の気が引いていくのが分かった。上下関係に厳しいこの場所で、非特待生の一年生が特待生の三年生に食ってかかる。それが一体どういうことか、玲明の底辺で一年を過ごした
には手に取るように理解できてしまったから。
知りませんでしたでは済まされない。ごめんなさいでは許されない。非特待生に、温情など与えられない。
急いで止めなければ――一歩踏み出した瞬間、鈍い音と共にくぐもった声が耳に届いた。集団のリーダー格のような生徒が、これ見よがしに男性を強く蹴り込んだのだ。
「まだ何も知らないみたいだから教えてやるよ、クソ生意気な一年生。――俺たちは特待生だ。
非特待生が逆らって良い相手じゃないんだよ」
「何言ってんだ、あんた?」
「合格通知にも書いてあっただろ?『非・特待生』って。この学園ではそう書いて『奴隷』って読むんだ。お前らは人間じゃないんだよ。こいつもな」
ニヤニヤと底意地の悪い笑みを浮かべながら、リーダー格の生徒が吐き捨てた。周囲も釣られるように下卑た笑い声を上げ、ボールでも弄ぶように代わる代わる男性を踏み付けていく。苦悶の声を漏らす男性に、その集団はまた冷やかすようにゲラゲラと笑った。
……ひどい。見ていられない。
思わず顔を逸らして、
はぎゅっと目を瞑った。あの男性が特待生に蹴り飛ばされる姿は、実は珍しいことではない。教師が近付かないように言い含めたところで、校内にいればまったく出会わないというわけにもいかず、面白半分憂さ晴らし半分で手出しする男子生徒がたまにいるのだ。大半は完全に存在を無視していたり、たまに用務員のような仕事をしていることから「そういうもの」とその存在を受け止めていたりする。彼らのように邪険にするのは少数派だったのだが、この頃は「憂さ晴らし」を求める特待生が増えてきているようで、
が似たような光景を見るのは初めてではない。
このような現場を目撃した場合、見て見ぬふりをするのが一般的であり、正しい選択だ。身元も知れない謎の男を助けたところで誰も得なんてしない。しかも非特待生が食ってかかるなんて、自ら火中に身を投じるようなものだ。
けれど、何も知らない勇敢な一年生は、まさにその業火に踏み入れてしまった。
「人間じゃないのはお前らの方だろうがッ! いい加減にしろよ!!」
はっと
が顔を上げると、一年生の少年が集団の一人に掴みかかるところだった。非特待生が真っ向から逆らうとは思わなかったのか、特待生は少々面食らっているようだ。しかしすぐに我に返り、一年生を抑え込もうとする。
「だ、だめ……っっ!」
は思わず小さな悲鳴をあげ、自分で自分の口を両手で覆った。彼を止めなくてはいけない、けれどあそこに向かっていくのは――、あまりにも恐ろしい。女子社会の冷遇には慣れている
でも、暴力沙汰はさすがに怯んでしまう。下手をすれば死ぬのではないか、そんな恐怖すらあった。
周囲を見回しても教師は一人も居らず、他の特待生は気にした様子もない。非特待生は当然、巻き込まれないようにと足速に去っていくばかりだ。
少年は一撃こそ食らわせたものの、多勢に無勢ではどうしようもなく、あっという間に数人がかりで羽交締めにされてしまった。どうにかして振り解こうともがいているが、そうこうしているうちにも他のメンバーから顔に腹にと拳を食らっている。このままでは、あちらの気が済むまで続けられるだろう。
「…………」
は意を決すると、他の生徒たちに紛れるようにしてそっと遠ざかった。
焦りで早鐘を打つ心臓をなだめながら、仕事に追われる非特待生の顔をして平然と歩く。徐々にスピードを上げてゆき、あちらの視界から完全に消えるのを確認してから、
は走り出した。目指すは職員室。自分の手に負えないことは大人に頼るしかない。非特待生の言うことであっても、特待生が絡むことなら聞き入れざるを得ないはずだから。
特待生たちが殴り合っている、と職員室に駆け込めば、生活指導班の教師は「またか」と眉間に深い皺を刻んだ。渋々といった様子ではあるものの、
の読み通り教師は腰を上げる。学年や人数などを確認され、特待生についてのみ正直に答えると、教師には心当たりがあるのか苦い溜息を漏らした。
「どこで暴れてるんだ? 案内しろ」
乱暴に吐き捨てる教師を連れて来た道を戻っていく。校門が見えるところまでやってきて――
にできることはそこまでだった。
未だ続くリンチ現場を視界に確認すると、教師は落ち着き払った様子で「後はこちらで対応する」と
を追い払ったのだ。その
対応が
の望むものであるかどうか、確かめさせてくれるつもりはないのだろう。お前は非特待生だろう、早く業務に戻りなさい。厳しい口調で言われては、従うほかなかった。
あの教師は喧嘩の仲裁をしてくれただろうか。新入生の彼は大丈夫だろうか。……それとも、教師を呼んだのはかえって良くなかっただろうか。
芳花の部屋に向かいながら、
はぐるぐると考え続けた。咄嗟の判断が正しかったのか、冷静になってみると自信が持てなくなる。放置した方が良かったなどとは思わないが、教師が介入すればあの新入生のほうが罰せられてしまうかもしれない。なにか他のことで気を引いた方が良かっただろうか。でも、いったいどうやって? 分からない。
……無知ゆえに勇敢だった、あの一年生は。
彼は地獄を知っても、あの勇気を抱き続けることができるだろうか。
眩しいまでの真っ直ぐさを、失わないでほしいと思う。けれどそれは、この地獄ではあまりにも苦しい生き方だ。同じ地獄に住む先達として、どちらの道を願うのが正しいのか――やはり、
には分からなかった。
ありがとうございます!
Up:2022.06.26