プロローグ


 ウレタン越しに床の固さが感じられるような安っぽいマットレス一枚と、その周囲約二十センチメートル。申し訳程度にサイドがカーテンで仕切られた三畳にも満たない空間が、この玲明学園において『非・特待生』に認められている個人スペースだ。引き出しや棚は部屋の入口に共用のものが置かれているのみ、机は部屋の中央に卓袱台が一つと折りたたみ式のテーブルが一つあるだけ。刑務所以下のこの劣悪な環境が、彼女たちに許された場所だった。
 この非特待生向けの学生寮では、通称タコ部屋と呼ばれる大部屋に、数十人が一緒くたに放り込まれる。ベッドなんて上等なものなどあるはずもなく、床に直接敷くほかないマットレスは一年を通して寝苦しい。エアコンこそ付いているが非特待生にエアコンの操作権はなく、必要最低限でしか稼働を許されない。

 徹底した差別制度のもと、学園の底辺であることを骨の髄まで刻み込まれる非特待生たち。
 この地獄から逃れられないと早々に悟った賢い生徒は、まず何をするだろう?
 答えは簡単。この地獄での上位を目指すのだ。己の自尊心のため、現実から目を逸らすために、底辺のレッテルの中でも「マシ」なポジションを探そうとする。地獄の中での差別制度の再生産は、さらに惨めな地獄を生んだ。
 分かりやすいのが学年の差で、最も過酷な扱いを受けるのが一年生である。寮内の清掃や洗濯などの雑用を押し付けられたり、タコ部屋の中でも寝苦しいスペースに追いやられたり。そんな洗礼を受けて、賢い一年生は気付くだろう。これがこの学園での生き方だと。自分よりも格下の弱者を用意すること、それこそが、この地獄で生きるために必要なことなのだと。
 賢い生徒がいるのなら、当然愚かな生徒もいるものだ。この学園のルールに気付けず、搾取されるまま地獄の坂を転がり落ちてゆく惨めな生徒。エアコンの効かない廊下に面したドアに一番近いスペースに追いやられているのがその証拠。
 奴隷の最下層。今、そこにいるのがだった。
 は子供の頃からじゃんけんが弱かった。それはもう弱かった。くじ引きやビンゴはそれなりに運が良いのに、じゃんけんだけはどうしても駄目だった。中学時代の友人に言わせれば「癖があるから分かりやすい」とのことだが、初対面の相手にだってほとんど勝てた試しはない。このタコ部屋の場所取りもじゃんけんで決めたのだが、学期毎の三大会すべてでは最下位、全戦全敗だった。初回に限れば挨拶もろくに交わしていないような相手もいたはずだが、それでも勝てなかった。ここまで負け続けるなんていっそすごい確率だと、おかしな感心をされるほどのボロ負けだった。
 じゃんけん一つでの命運がすべて決まったのかといえば、おそらくそうではない。一学期の大敗にも関わらず、二学期も三学期も場所取りがじゃんけんで決定されたのは、そこに至るまでにが己の価値を証明できなかったからだ。端的に言えば舐められたのだ。押しに弱く他人の頼みを断り切れないお人好しを、この学園では「愚か者」と言う。
 ――あたしたち、友達でしょ?
 そんな都合の良い仲間意識を振りかざして、同期たちは嫌いな仕事を押し付けた。初めは些細な雑用から。次第に彼女たちは増長し、今やに自由時間などほとんどない。皆が寝静まった後、静かに布団の中で日記をつけるのが、唯一許された時間だった。
 友達なんだから断らないよね、手伝ってくれるよね、代わりにやってくれるよね? 嫌ならじゃんけんで決めようか? ああでも、はすぐ負けちゃうもんね。
 笑顔で他人の優しさを搾取する様は、『特待生』とよく似ていた。こいつは雑に扱って良い、笑顔の向こうに冷徹な蔑視が透けて見えた。
 は次第に抵抗をやめた。抵抗の先に希望などないと知っていたから。
 一月ともなれば夜の寒さは一層厳しく、いくらエアコンが付いているとはいえ過ごしやすいとは言えなかった。最低限温められた空気は部屋の上へと溜まってゆくばかりで、布団に横たわれば固いフローリングの冷たさがマットレスを通り抜けて身体に凍みる。ジャージの中にも外にも重ね着しなければ、とても眠れたものではない。マフラーをぐるぐると巻いて、コンビニにでも行くような格好で布団に潜り込む生徒も少なくなかった。
 消灯時間まであと三十分ほどとなった現在、帰寮している生徒はほとんどが布団に潜り込んでいる。疲れ果てて眠るもの、寒さに耐えかね布団を被るものとまちまちだが、彼女たちは皆一様に深い疲労の色を浮かべていた。会話に興じるものが少ないのも、すでに眠っているものへの気遣いというより会話する気力すら残っていないだけだろう。割り振られる仕事は生徒により様々だが、体力仕事の雑用にしろ特待生のご機嫌取りにしろ、心身を磨り減らす業務ばかりだ。そんな過酷な労働と戦い続けていれば、会話に回すエネルギーすら惜しみたくもなる。
 が受け持つのは主に特待生のご機嫌取りで、幸か不幸かとある一人の女子生徒に気に入られてしまっていた。今日も今日とてわがまま放題の特待生様はを顎でこき使い、自分が女王にでもなったかのような振る舞いだった。本人はお姫様気分らしいが、褒め言葉を欠かすと烈火のごとく怒鳴り散らす様を見ればお姫様をいじめる悪い魔女に近い。おかげさまと言うべきかなんと言うべきか、の褒め言葉のボキャブラリーは彼女に付いてから格段に増えた。
 さすがです、知りませんでした、素敵です、センスがいいですね、その通りです。褒め言葉の「さしすせそ」などお手の物。彼女の容姿に始まりレッスンに打ち込む真剣さや持って生まれた能力、家柄に至るまで、何から何まで褒め尽くし、合間に彼女の望むものの用意をし、次の仕事の準備をして、車を手配して送り出す。車が完全に見えなくなるまで、腰を直角に曲げた深いお辞儀の姿勢を崩してはならない。テレビ局には事務所のスタッフが控えているので、校内で完結するのがせめてもの救いだ。
 彼女が悪い魔女なら、はさしずめ魔法の鏡だろうか。そうあるべしと生み出された無機物なら淡々と相手の望む言葉を返せたのかもしれないが、は無機物の鏡ではないし、かといって代わりの心臓を調達する狩人のようにもなれない人間だった。
 不興を恐れた褒め言葉を繰り返すなんて、苦痛以外のなにものでもない。代わってくれる人もいなければ、当てを探す人脈もない。ただ心を殺して、望みを映す鏡に徹する。感情に蓋をすることだけがが持つ処世術だった。

 深い溜息とともに記入の終わった日記帳を閉じ、は鞄から一枚の葉書を取り出した。入学以来愛用しているハードカバーの三年日記は、実家を出るときに祖母に買ってもらったものだ。黒いレザー調の生地に金の箔が押された高級感のあるデザインで、中の紙も滑らかで書き心地がよい。は再び布団に潜り込みうつ伏せになると、日記帳の裏面を表にして枕に乗せ、その上に葉書を重ねた。日記帳の裏面には箔押しがなく滑らかなので、下敷きにするにはちょうどよいのだ。枕を押し込み押し込み書きやすい場所を探してから、葉書にペンを走らせる。
「またばーちゃんに書いてんの? マメだよねぇ」
 抑えた声でそっと声を掛けてきたのは、三学期のじゃんけん大会での次に負けた倫菜りんなだった。倫菜は隣のスペースにごろりと寝転ぶと、丸まった羽毛布団や毛布を足でごそごそ整え始める。布団に潜り込んだもののまだ眠るつもりがないのか、倫菜との境は半分ほどカーテンが開けられたままだった。
「うん。『毎週送らないとすぐに家に連れ戻すよ!』って言われてるから」
「えーっ、のばーちゃん怖いんだぁ、意外。でも、いっそ連れ戻されたほうがよくない? こんなとこ」
「…………」
 は思わず口を噤んでしまった。否定できなかったからだ。
 安くない学費を払って入学したこの学園で、学べたことはあっただろうか。一般的な高校でも学べるような授業すらも十分とは言えず、アイドルとしての実践的な知識は『特待生』しか学ぶことを許されない。そして選ばれなかったたちは、彼らの奴隷になるか、アイドルを輝かせるための舞台装置になるかの二択だ。『非・特待生』の存在意義とは、特待生の役に立つか否か、ただそれだけなのだ。
 春に胸を高鳴らせてこの学園の門を潜ったときには、想像もしていなかった。
 地獄が待っていると知っていたなら、きっとこんな場所には来なかった。
 ――もし、戻れるのなら。
「倫菜は……戻りたい?」
 ぽつりと質問を返す。家へ? 入学を決める前へ? 自分の中でも定まらない問いに、応えはない。
 自分は? どうだろう。分からない。願いはきっと、そんなところにはない気がする。
「私、は……」
 考えがまとまらぬままに口を開き、視線を隣に滑らせる。――と、返ってきたのは静かな寝息だった。言いたいことだけ言ってさっさと眠ってしまったらしい。少々の脱力を感じたが、倫菜は毎晩こんな感じだ。とはいえ、責める気もなければ呆れたりもしない。無理もないことだった。
 倫菜はご機嫌取りのとは違い「舞台装置」側の人間だ。中学時代にバスケ部で鍛えたスタミナを買われてか、百七十に近い長身を買われてか、男子に交ざって肉体労働に勤しむことが多いのだ。裏方スタッフは学外での活動も多く、地方ロケでは車中泊となることもあると聞く。寝るべきときに寝られるのも一つの才能だよ、とは彼女の談である。
「……おやすみ」
 は中途半端に掛かった羽毛布団と毛布を首元までしっかり掛けてやると、音を立てないようにそっとカーテンを引く。それから自分も布団に潜り直して、再び葉書と向き合った。

 おばあちゃんへ。元気にしていますか。私は元気です。最近は寒くて朝が辛いけど、友達と協力してどうにか起きてます。陸上部の朝練よりは遅いはずなのに、どうして朝が辛いんだろう。毎日くたくたになるまでお仕事しているせいかな? でも、おばあちゃんがやるべきことをやって疲れたなら良い疲れだって言ってたから、それを励みに頑張っています。今週は年明け最初のダンスレッスンがあり、先生へのご挨拶をしました。ボイストレーニングは来週始まる予定です。私はまだ一年生だからレッスンを受けることができないけれど、先輩の姿をしっかり見て学んで、今後に生かしていけたらいいなと思っています。……――。

 自尊心を根こそぎ刈り取るような徹底した奴隷扱い。多感な思春期を何十人もの他人と一部屋に詰め込まれ、身も心も安まる時などない――。そんな苦痛には一切触れることなく、は「大変だけれど充実した日々」を一文一文考えながら葉書へと書き込んでいく。
 ――嘘をつくときは、本当のことに嘘を少し織り交ぜるといい。
 どこで聞いたのだったか、そんな言葉がふっと胸に蘇り、は手を止めた。事実と、少しの嘘。が祖母へ出し続けている葉書が、まさにそうだった。
 嘘。その言葉がじわりとの胸に染みこんで、慣れた痛みを広げていく。嘘を、吐いている。最愛の祖母に、たった一人の肉親に。
 めまぐるしい日々のことは事実だが、それ以外はほとんどが嘘だ。悔しさに涙したことも理不尽に怒ったことも、書いたことはない。ささやかな喜びや楽しみを膨らませて、ありもしない希望を並べ立てて、ときには特待生に聞いた話を少し脚色して、は「楽しい学園生活」を綴ってきた。
 たまに電話が来ても、多忙を理由にして五分も話せなかった。忙しいのは嘘では無いが、一番の理由は電話では祖母を騙し切れそうになかったからだ。声が震えるかもしれない、咄嗟に言葉が浮かばないかもしれない、だっていつも必死で「楽しい日々」を捻り出している。
 本当は辛い。苦しくてたまらない。助けてほしい。
 希望なんて本当はもうどこにも見えない。どれだけレッスンを真剣に見守っても、トレーナーが相手をするのは特待生だけだ。自己流のレッスンを重ねたところで、それを披露するチャンスすら与えられない。非特待生とはそこにいるけれどいない存在で、壁と同じだった。
 非特待生の中に安寧があったなら、多少の救いも感じられただろう。しかし地獄は再生産されるばかりで、非特待生の中にも「人」と「それ以外」が生まれてしまった。「それ以外」となってしまったは、格下を探して安堵するような人々に利用されるだけの存在だ。自己流のレッスンを重ねる暇すらもない。
 利用されていても、よかった。それでみんなが幸せならば構わないと思っていた。けれど日々降り積もる息苦しさは次第にの心を蝕み、暗い影を落としていった。そして気付いてしまったのだ。私を底辺に置くことで皆が救われるのなら――私の首を締め付けるこの苦しみからは、いったい誰が救ってくれるの?
 逃げ場のない搾取に気付いたら、平気ではいられなくなった。優しさの泉は徐々に枯れてゆき、磨り減り続ける心がもう限界だと叫んでいる。このままでは壊れてしまう。このままではいけない。それでも逃げ場はなくて、救いの手など現れるわけもなくて。
 いつしか葉書の外でもは嘘を吐くようになった。自分の心を守るために。押し潰されそうな辛い現実から目を背けるために。罪悪感すら摩耗して、けれど時々思い出したように胸が痛む。自分を騙している。なにより、祖母を騙している。

 嘘を吐くことをやめたなら。この苦しみも少しは軽くなるだろうか。罪悪感だけでも消えてくれれば、息苦しさは和らぐだろうか?
 ありえない。考えるまでもない。そんな簡単なことならはじめから嘘など吐くわけがない。
 すべてを正直に曝け出してしまったら、葉書に満ちるのは地獄への嘆きばかりになるだろう。そんなもの書けるわけがなかった。送れるわけがなかった。
 だっては、祖母の反対を押し切ってこの学園にやってきたのだ。どうしてもアイドルになりたいと、どうしても諦めたくないと、訴えて訴えて訴えて、ようやくここへやってきたのに。
 たった一年で弱音を吐いたら、しかも限りなく望みがないのだと知ったら。「だから言ったでしょう」と連れ戻されるのは明らかだ。
 この地獄を脱したい。それは確かな望みで、けれど祖母の元へ逃げ帰りたいこととイコールではない。
 憧れた輝きに手を伸ばしたい、手を伸ばすことを許される立場を手に入れたい。脱した先に望むのはそれだけだ。ただ楽になりたいわけじゃない。他の夢なんて見たくない。まだ、諦めたくない。
 悔しくても、苦しくても、希望などないと分かっていても。まだ諦めきれないから。抗って、もがいて、戦って、できることをすべてやり尽くすまで。それまでは。
 もう一度、はペンを握り直した。ひとつひとつ丁寧に、葉書の余白を埋めていく。祖母へ向けた嘘を、自分に向けた暗示を、そして誰かに向けた祈りを込めて。


Up:2022.06.26