すばらしい新世界/第二話


 朝から晩まで校内を駆けずり回り、は疲弊した身体を引きずるように寮へ向かっていた。
 購買で値引きされている賞味期限間際のおにぎりを手に入れられたのは不幸中の幸いだ。寮で食べれば「一口ちょうだい」で半分以上持って行かれることは目に見えているので、もうすでに食べてしまった。お腹はそれなりに膨れたが、全身を覆うような疲労感はかえって増したように思える。
 校舎群から近い位置に建っている特待生用の寮とは違って、非特待生の寮は校内でも少し奥まった場所にある。夏は蒸し暑く冬は冷え込み、ベランダは日当たりが悪いという最悪な立地だ。ミッションスクール時代の校舎を改築したものらしく、外観も古びている。内装はリノベーションされそれなりに綺麗ではあるものの、アイドル校としてスタートする際に新しく建てられた特待生用の寮に比べれば雲泥の差である。
 こうした些細な部分でも格差を突きつけ、非特待生に身の程を知らしめるというのが玲明の方針なのだろう。徹底した扱いの差は教師にも生徒にもじっとりと染み付き、今日のような問題を起こす。自分たちは何をやってもいいのだという横暴と、自分たちは何をやっても無駄だという怠慢を、生徒たちに許すことになるのだ。
 ――人間じゃないのはお前らの方だろうが!
 ふと、あの少年の声が蘇る。そんな非道を平然とやってのけるなんて、それでも人間なのか。至極真っ当な叱責が、しかしこの世界に慣れてしまったには新鮮で、少し眩しかった。その感覚を、きっとも持っていたけれど。いつしか擦り切れてしまった。人として当たり前の尊厳、当たり前の感情。最初に抱いた夢以外のすべて、曖昧にぼやけて。抗っても無駄だった、嘆いても無駄だった、それなら慣れるしかなかった。ここにいたいのなら。夢を手放したくないのなら。
 けれど、本当にそうなのだろうか。人間として当たり前のものを捨てて、掴める夢なのだろうか。そんなに虚しくて苦しいものに、自分は憧れたのだろうか?
 は急に、必死で歯を食いしばる自分が馬鹿らしく思えた。私は何をしているんだろう。何のためにここにいるんだろう。くだらないことで駆けずりまわって、周りの人に怯えて、心をどんどん削って、大切なものをいくつも取りこぼして。今、自分の手の中には何があるだろう。一つだけ握りしめた夢は、死にかけの蛍のように弱々しく微かな光を灯して、それすらも消えようとしている。
 ……もう、やめちゃおうかな。
 そろそろまた祖母に葉書を書かなくてはいけない。歯を食いしばって、辛いことを隠して、楽しいふりをして、虚勢を張って嘘を塗り重ねた、葉書を。諦めたくなかったから。まだ、ここにいたかったから。
 でも、それも疲れてしまった。もともと嘘なんて得意じゃない。嘘吐きなんて好きじゃない。憧れたものになるために嫌いなものにならなければならないなんておかしな話だ。だったらもう、いいじゃないか。
 嘘を吐き続けてしがみついても、夢に手を伸ばせるのは特待生だけだ。非特待生に望みなんてないし、コズプロの系列会社に就職したとしても、今のようにこき使われるばかりだろう。芳花の気が変わらないかぎり、きっと卒業後もは彼女のわがままに付き合わされ続ける。わがままで気まぐれで、レッスンだって自分が好きなものしか手をつけない気分屋で、そのくせあれもこれも褒め尽くさなければ気が済まない、そんな芳花に。
 好きでもない人間に振り回され続ける人生に、いったいなんの意味があるだろう。せめて真剣にアイドルとして努力している人だったら、支える意味も見出せるかもしれない。元々人の役に立つことは好きな性分だ、尊敬できる人のためならば、きっともっと頑張れた。もっと違う人が特待生だったなら、非特待生としての立場だってそう悪いものではなかったかもしれないのに。
 芳花ではない、もっと違う誰かなら。その誰かが──他でもない──自分だったなら?
 ありえない「もしも」を考え始めてしまえば、最も虚しい空想はいつだって待ち構えていたようにの心の隙間に忍び込む。自分が特待生だったなら。何度考えたことだろう、数えるのも嫌になるほど、繰り返し見た幻だった。だからこそ虚しいのに、だからこそいつでも胸を占拠する。現実から目を逸らした瞬間に、それはやってくるのだ。
 私だったら。私が特待生だったら、どんなレッスンだって必死で頑張るのに。トレーナーの一言一句聞き漏らさないように、教わったことをすべて自分の糧にできるように、いつどんな仕事が舞い込んだって対応できるように。なんだって頑張るのに。ずっとずっと憧れたアイドルになれるのなら、本当にアイドルになれるのなら、どんな仕事だってレッスンだって苦じゃないのに!
「…………ああ、もうやだな」
 弱々しかった光が一瞬燃え上がるように強まって、それからまた、ゆるゆると勢いを落としていく。嫉妬心で燃え上がる憧れだけではどうにもならないところまで、の心は追い詰められていた。今にも消えそうな弱々しい光が、の瞳の中で揺れていた。
 が寮の前に着くと、玄関口の近くでうろうろと歩き回る人影があった。制服から玲明の男子生徒であることは分かったが、こっちは女子寮だ。男子寮は右手にもう少し進んだところにある。昼間であれば仕事絡みかもしれないと思えるが、今は夜の八時を過ぎている。常識的に考えて、異性の寮を訪ねていい時間ではないだろう。明日の仕事に緊急で変更でもあったのだろうか、はたまた恋人でも訪ねに来たのか。……そこまで考えて、は内心で自嘲した。いくらなんでも、それはありえないだろう。こんな地獄で色恋に励む余裕なんてあるわけがない。おかしなことを考えてしまった。今日は随分と疲れている。
 気を取り直して、はその人影に近付くことにした。寮へ向かうには彼の前を通らなければいけないし、見つけてしまった以上は無視もできない。だったらもう、声を掛けてしまうしかなかった。
「あの……どうしましたか?」
 後ろ姿では学年も分からない。念のためにと敬語で話しかけると、男子生徒はびくりと肩を振るわせてゆっくりと振り向いた。寮の入口に設置された明かりでぼんやりと照らされたその顔には、真新しい擦り傷や痣がいくつもある。……もしかして。は思わず自分の制服のスカートをぎゅっと握っていた。
 あの彼だったら、どうしよう。
 向こうが自分を知るわけもないのに、どうしてか顔を合わせる資格がないように思えた。こそこそと教師を呼ぶことしかできなかった自分が後ろめたい。痛々しい傷の数々が、なおさらを責めているような気がした。
「えーっと、すいません。一年生なんだ……です、けど。寮ってここであってる、ますか?」
 なんともぎこちない敬語で尋ねる声に、は息を呑む。やっぱりそうだ。彼は、朝に見かけた少年。まだこの地獄を知らなかった、勇敢な一年生だ。
「こっちは……女子寮だから、一つ隣だよ。ほら、あっちが男子寮」
「あぁ~、どうりで。なーんか雰囲気がおかしいと思ったんだよな……。どーも、ありがとうございました」
 軽く頭を下げて去って行こうとする一年生を、は慌てて呼び止めた。こんなことをしても罪滅ぼしにもならないが、素知らぬ顔でいるのも落ち着かない。急いで斜め掛けのボディバッグの中身を漁り、目当てのものを引っ張り出した。
「これ、絆創膏。もしよかったら使って」
「いいのか? じゃなかった、いいんすか? ありがとう、ございます。……あの、先輩っすよね」
「うん。私は二年生だよ。……私は、あんまり気にしないけど。細かい人も多いから、知らない人だったらとりあえず敬語で話しかけていいと思う」
 それがどんな人間であったとしても。自分を守るためには、見せかけの敬意でもないよりはいい。
 むしろ、腹立たしく思う相手こそ敬語を使っておくべきだろう。そういう人間は大抵が特待生だ。逆らってもいいことなんてない。今日、彼もそれを思い知っただろう。
「それ、他の先輩にも言われた、ましたよ。階級制度みたいな? ったく、いつの時代だっての」
「ばかばかしく思えるかもしれないけど、それがここのルールだから。ここで生きていきたいなら、守らなくちゃだめだよ」
「…………」
 不服そうな表情で押し黙る一年生に、は曖昧に微笑みを返す。彼の気持ちは痛いほど分かる。けれどどうしようもないのだと、はもう知っているから。
「特待生には逆らわない。余計なことには関わらない。……隙を見せないようにして、他人に蹴落とされないようにする。ここでやっていくなら……最低限、それだけは気をつけてね」
「余計なこと?」
 彼はとうとう苛立たしさを隠さずに吐き捨てた。朝の一件を思い出したのだろうか。確信めいてしまうのは、もその一件が頭にあったからだろう。彼の善意を「余計」と切り捨てるのは、はっきり言って心苦しい。しかし、誰かが教えなければ、彼もまた潰れてしまうだろう。賢く生きられなかった自分のように、心を磨り減らしてボロボロに傷付いていくだろう。
 彼は人間として正しいことをした。責められる謂われなんてどこにもないのだ、本来なら。けれど、この学園において彼の行動は愚か以外の何ものでもない。
 はこの一年で、ようやくそれに気付いた。自分はどうしようもなく愚かで弱い。そして一度蹴落とされ潰されたら、這い上がることは絶対にできない。それを誰も許してはくれない。
 私はずっと気付けなかった、戻れないところまで墜ちてしまった。せめてきみは早いうちに、すべてが決まってしまう前に、どうか気付いてほしい。気付かなければ選ぶこともできないから。選択もできずただ壊れていくことの苦しさを、私はもう知っているから。
「誰かを助けるなんてね、ここでは、馬鹿のすることなの」
 頼まれたら断れないお人好しも、非道を見過ごせない正義漢も、この世界ではただの馬鹿だ。馬鹿では生きていけないし、馬鹿のままでいたいのならこの地獄を去るしかない。
 彼がこの地獄で生きることを選ぶとしても、人としての正しさを選ぶとしても、それが本人の選択ならばきっと後悔しないだろう。
 できれば彼には正しいままでいてほしい。この地獄に早く気付いて、この世界に染まらないでほしい。さすがにそれは自分のエゴだと分かっているから、口にはしないけれど。どちらを選ぶとしても、後悔だけはないように。に伝えられるとすればそれだけだ。
「朝、特待生に絡まれている人を助けたでしょ? でも、誰も君を助けてくれなかった。間違ってるのは特待生なのに、先生が叱るのは私たち非特待生。……ここはね、そういうとこなの」
「そういうとこって……なんだよそれ、おかしいだろ!?」
「おかしいよ。でもそのおかしさで成り立ってる。最初から私たちは使い捨ての歯車なの。壊れることが前提なんだよ」
 この地獄のために壊れた人間か、もしくは最初から壊れている人間だけが、この地獄では幸せになれる。
「あんたはそれで平気なのかよ!」
「……っ、平気なわけないでしょ!!」
 言葉を失う彼を見て、もまた目を瞬かせた。
 ――今、自分は何をした?
 金切り声に近い叫びが飛び出した自分の口を、今更のように手で覆った。出会って間もないこの少年に対して感情をぶつけてしまったことに、諦念に染まり切ったはずの心がまだ怒りを覚えていたことに、自身が一番驚いていた。
「あー……、すいません、俺……」
 気まずそうに目を逸らす彼に、は慌てて首を横に振った。
「私こそ、ごめんなさい! 急に怒鳴ったりして……驚かせちゃったよね」
「いや、俺も怒鳴っちまったし。一年のくせに、生意気だったっつーか」
 言いながら朝の一件を思い出してしまったのか、彼は苦虫を噛み潰したような顔になる。彼につられるようにして、もまた渋面を浮かべた。生意気だなんて、そんなこと思ったりしない。今も、あのときも。
 正しいことをしたんだよ、きみは。
 それを伝えられるだけの強さが、本当はほしかった。こんな後ろ向きな助言しか与えられない自分が、本当は恥ずかしい。苦しい二択しか示せない自分が、本当は恥ずかしい。
 正しいままこの地獄で生きてほしいし、生きていたかった。
 自分には選べない三つ目を、もしかしたら彼は持っているかもしれない。彼の眩しいまでの正しさには、そう思わせる力があった。本当はそれが少し、羨ましくて。助言のふりをして、彼を試したかったのかもしれなかった。思わず飛び出た本心で、気付かされた。
「ごめん、さっきの忘れて」
「……え?」
「私……、君になにか、偉そうなこと言える立場じゃ、なかったよ」
 さまざまな種類の羞恥が波のように押し寄せて、は逃げ出すようにその場を後にした。呼び止める声が聞こえた気がしたけれど、ぎゅっと目を瞑ってそれを振り払った。


Up:2022.06.26