行きつく先は君のもと
出水とがB級に上がって初めてチームを組んだのは、岬りか子という射手だった。
C級の頃から引く手数多だった出水に比べて、同期入隊のはいまいちパッとしなかった。筋は悪くないと誰もが言うが、率先してチームに引き入れたいと思わせるほどのものはない。りか子が真っ先にに声を掛けたのも、出水が同期の幼馴染と組むつもりらしいと知ったからだった。将を射んと欲すればなんとやら。師匠を探していたに風間を紹介して恩を売り、そちらから口説き落とすことで、りか子はみごと出水公平争奪戦の勝者となった。
そんな知将ぶりを見せたりか子だったが、射手としての能力は並みの域を出ず、入隊時から稀有な才能を認められ褒めそやされた中学生の出水公平は、彼女を存分に舐めてかかった。四つも先輩で、なおかつ入隊だって半年はりか子のほうが早い。敬意というものをまるで知らない態度の出水に、りか子はおおいに自尊心を傷付けられた。しかし出水の能力の高さは文句のつけようがなかったし、ついでのように引き入れたは打って変わって素直で可愛げもあり、風間のおかげでみるみる実力を伸ばしていったため、出水の生意気には大きく目を瞑ることにした。
初めてのランク戦が明けた、五月のことだ。
岬隊の作戦室に忘れ物を取りに行った出水は、明かりも点いていない薄暗い部屋で、女のすすり泣く声を聞いた。怪談のシーズンにはだいぶ早いぞ、と慌てて電灯のスイッチを叩いた出水が目にしたのは、長い髪をだらりと床に落とす白服の青白い女――などではなく、目元を真っ赤に泣き腫らした、りか子の姿だった。
出水の知る岬りか子は、喜怒と楽のはっきりした明るく快活なひとだ。いつだって楽しそうに笑って、生意気な出水にはぎゃんぎゃん怒って、しかしまたすぐにころりと笑顔になる。「先輩をなんだと思ってるんだ!」と憤慨した数分後には、出水の鮮やかな戦術を手放しで褒めちぎるのだ。笑ったり怒ったりと忙しい彼女だが、悲しむ顔だけは、一度として見たことがなかった。
そんなりか子の悄然とした姿は、十四歳の出水をいたく動揺させた。静かに泣き濡れる年上の女性を前に、出水がしてやれることと言えば胸を貸してやることだけだった――いや、本来なら黙って部屋を出てやるのが正しい選択だったのかもしれないが、物心ついた頃から泣き虫な幼馴染をそばで見てきた出水には、それが正しく自然な選択だったのだ。
理由を聞くこともなく背をさする出水に、遠慮がちだったりか子の泣き声は次第に大きくなっていった。しまいには出水の服をきつく握りしめて幼い子どものようにわんわん泣きじゃくったが、出水は普段の生意気をまるで見せず、黙って背を撫でることに徹した。
りか子からは、嗅ぎ慣れない甘い香りがした。りか子の体は、幼馴染のそれよりもずっと柔らかく女性らしいまるみを帯びていた。りか子の髪は肩のあたりで切りそろえられた直毛で、長いくせ毛の幼馴染とはまるで違う。
りか子はいま、出水の腕の中にいる。いつの間にか風間の背ばかり追いかけるようになった、泣き虫だった幼馴染とは違って。
翌日のりか子はけろりとしたものだった。せめて涙の理由くらいは聞きたかったが、姉の躾と出水の敏さがその疑問をぶつけることを許さず、目元の赤みをに指摘されたりか子が「昨日徹夜で漫画読んじゃってさ」と笑えば、出水は「ミーティング中に寝たら、今日の昼飯はりかさんのおごりってことで」と普段通りの生意気なセリフを口にした。
ミーティングが終われば、はそそくさと風間の元へ飛び出していく。二人きりになった作戦室で、りか子は眉を下げて笑った。
「さっきは、ありがとね」
「……なんのことっすか?」
理由を言うつもりがないことは、りか子のその笑顔を見れば分かった。感謝と拒絶が、瞳の中に混在している。だから何も気付かなかったふりをして、出水はしれっと顔を逸らしたのだ。
「出水って、結構いい男だね」
ほんのりと苦味を残した微笑だった。昨夜抱きしめたりか子の感触を出水は思い出した。年上の女性。そのことを痛烈に実感した。岬りか子はおんなである。そして出水はおとこだった。
その事実が脳髄を撃ったときから、おそらく出水の恋は始まっていた。
りか子のことが頭から離れなくなった。りか子の前でだけつまらないミスが増えた。いつも見てきた明るい笑顔や怒った顔、そして先日見てしまった泣き顔や陰りのある笑顔以外にも、もっといろんな顔が見たいと思った。
自分を置いて駆け出していく幼馴染の背中を見ても、もう出水の胸は傷まなかった。それよりももっと胸を満たすものができたから。
中学生という年頃と、射手としての才覚を全肯定される日々の只中にあった出水の万能感たるや、まさしく文字通りに無敵状態だ。怖いものなんて何もない。恐れを知らない出水は、しかし無謀の馬鹿とも違う。まずは少しずつりか子との距離を縮め、二人きりの時間を増やした。生意気ばかり吐いていた口は二人のときだけ優しくなった。「褒めてもなにも出ないぞ!」と照れ隠しのように言うりか子の真っ赤な顔が可愛くて、仕返しのように出水を褒め始めるりか子に面映ゆくなって。七月が終わる頃には、本部からりか子の家まで送るのも当たり前になった。出水は確かな手応えを感じていた。
八月のランク戦が終わり、岬隊はB級上位に食い込んだ。先シーズンに主力の一人だった攻撃手を失って中位に下落してしまった川崎隊とは、作戦室が隣というよしみでそこそこ交流があり、合同でささやかな慰労会を開いた。川崎隊の作戦室でお菓子や軽食を広げて談笑する間も、出水はさりげなくりか子の隣をキープした。人見知りの幼馴染が思いの外うまくやっている様子には少々鼻白んだが、それも些細なことだった。
その日もは風間の元へ向かった。りか子と二人で岬隊の作戦室に戻ってから、出水はずっとあたためていた計画を実行に移すことに決めた。
「りかさん、個人戦しましょうよ」
断られても丸め込む自信はあったが、りか子はすんなりと応じた。いいよ、やろっか。その笑顔がいつもとほんの僅か違うことに、その時の出水は気付けなかった。戦闘前とは違う種類の緊張を紛らわせるのに必死だった。
いつもの五本勝負。地形はりか子に選ばせた。それでも勝つ自信があった。二宮たちと同期のりか子とは半年ほど経験の差があるが、それを補ってあまりある才能が出水にはある。自惚れなどではなく、まったくの客観的事実だ。勝てる試合だと思った。あらゆる意味で。
転送の直前、出水はいつもの生意気な口振りで、しかしその奥にわずかな不安と緊張を隠して、告げた。
「おれが勝ったら、付き合ってよ」
結果。試合には勝った。面白いくらいによく勝てた。流石にあのタイミングで言うのはちょっとずるかったかな、と後悔したけれど、照れと怒りで真っ赤になるりか子はきっと可愛いだろう、なんて戦闘後の彼女を想像した。
出水は浮かれていた。開始前に顔を覗かせていた不安は一勝目の高揚で吹き飛んだ。なんせそもそも無敵状態である。負けることなんて、想像もしていなかったのだ。
「ごめんね。出水とは付き合えない」
全勝し、意気揚々とりか子のブースへ向かった出水を待っていたのは、照れに頬を染めるりか子でも怒りにそっぽを向くりか子でもなかった。
「それに、出水が好きなのは、私じゃないよ」
「…………は?」
呆然とする出水を残して、りか子は足早に去っていった。
振られるだけならまだよかった。いや、まるで何も良くないが、他に好きな人がいるとか好みでないとか、そういった返答ならまだ飲み込めた。諦めるかどうかは別問題だが、少なくとも出水の想いにきちんと向き合った答えだろう。
しかしりか子の返事は、出水の想いそのものを否定するものだったのだ。
りか子じゃないなら、一体誰だと言うんだ。これはおれの気持ちなのに、おれはあんたが好きなのに、どうして、どうしてよりによってあんたがそれを否定する。
年下だから子ども扱いして、そんな言葉で誤魔化そうとしたのだろうか? 他に理由が考えられなかった。告白を受け入れられなかったショックよりも、出水の想いを軽んじるような態度への失望の方がずっと大きかった。
りか子が解散を告げたのは、その翌日のことである。トリオン器官の衰え。それがりか子の引退と解散の理由だった。
早朝からの防衛任務を終えてが登校したのは、昼休みが半分ほど終わった頃だった。
「ちゃんおはよ~。任務お疲れ様!」
「お、だ。お疲れー!」
クラスメイトたちのねぎらいに笑顔で応じながら自分の席に辿り着いたに、斜め後ろの席に座る出水も「お疲れ」と声をかけた。出水の前の席を借りている米屋は、パックジュースに口を付けたまま挨拶代わりに軽く手を挙げる。
「それ飯? 食う時間なかったのか?」
出水は弁当箱を鞄に仕舞いながら、の手元のポリ袋に目を留めた。学校の購買の袋だ。昼上がりの任務の際は「安いから」と本部の食堂を利用する彼女が、購買を使うのは珍しい。
は袋を机の脇に吊り下げると、午前中に溜まったプリント類を机の中から取り出しながら答える。
「ミーティング長引いてさ、時間なかったんだ。川崎さんにバイク飛ばしてもらっちゃった」
の部隊の隊長である川崎忍武は、無類のバイク好きとしてボーダー内でも有名だ。同じくバイク好きの忍田とは十歳ほど年の差があるにも関わらず趣味が合うらしい。時折熱心に話し込む姿も見られることから、バイクトリガーの制作および新たなポジション・ライダーの実装を数年前から計画しているともっぱらの噂だった。
「飛ばすって川崎さん、そもそもすげえ運転荒くね? よく平気だったな」
米屋は飲み干した紙パックを畳みながら尋ねる。プリントの整理を終えると、も二人の方を向いて座り直しサンドイッチを取り出した。売れ残りのシンプルなジャムサンドと少々変わり種のあんこサンドだ。甘い物ばかりなのを気にしてか、袋の中には野菜ジュースも入っている。
「ジェットコースターみたいで楽しいよ」
「そーいう意味じゃねーだろ」
「半分くらい警戒区域の中だし、あとは裏道みたいなとこ通ってきたから」
うわあ、と呆れと感心がないまぜになったような顔で出水が笑い、それはちょっと楽しそーだなと米屋が目を輝かせる。
「おかげで本部から十分で着きました」
「川崎さんハンパねーな」
「すげー、オレも免許取ろっかな」
免許ってもう取れるんだっけ、つーかバイクっていくらすんのかな、給料貯めてりゃなんとかなるだろ、うち親が管理してるからなあ、おれはバイクより車がいい。
バイク派の米屋と車派の出水で意見が別れる中、は口を挟むことなく黙々とサンドイッチを咀嚼する。余程腹が減っていたのだろうか。いつになく静かな彼女をちらりと一瞥して、――出水は「あれ」と思った。大抵のものはにこにことおいしそうに食べる彼女が、今は表情のスイッチをパチリと切ってしまったみたいにぼんやりした顔をしているのだ。
これはなにかあったな。
ミーティングが長引いたと言っていたくらいだ、任務中にミスして叱られでもしたのかもしれない。昨日まではなんともなかったし、今日の午前中に何かがあったのは間違いないだろう。
この幼馴染は昔から些細なことでぴいぴい泣いていたくせに、四年前のあの日を境に、ストレスを吐き出すこともそこから浮上することも下手になってしまった。際限なく涙を溜め込もうとするを、昔のように泣かせてやれるのは、出水しかいない。
今日は何も予定が入っていないから、放課後にでも頃合いを見てつついてやろう。それまではしばらく放っておいて、いっぺんに全て吐き出させる方がのちの回復も早いというものだ。
出水はそう決めると、スマホでバイクを調べ始めた米屋に意識を戻す。いもしない恋人を乗せることを考えてバイクを選んでいるらしい米屋に「女は荷物が多いぞ」と忠告してやれば、米屋はあっさりと幻想の恋人と決別した。
英語の欠席が多いため補講に出るというを、出水は溜まったレポートを消化しながら待っていた。先に本部に行くことも考えたが、米屋は三輪隊の集まりがあると言って早々に帰っていったし、他に残る生徒も少なかったので教室で待つことに決めたのだ。三十分もすればB組の教室は出水だけになり、隣のA組からは英語教師の声が薄っすらと聞こえてくる。どうにも眠りを誘ってやまない教師の声と、窓の外からぬるい風とともに運ばれてくる蝉の大合唱をBGMに、出水は現代文のレポートにシャープペンシルを走らせた。
あくびを噛み殺しながらもレポートを二つほどやっつけた頃、隣の補講も終わったらしかった。
「あれ、どーしたの?」
戻ってきたは、出水の姿を見つけるなりきょとんと目を丸くした。出水はレポートの束をぱたぱた振って応じる。
「レポート溜まってたからやってただけ。ウチの作戦室じゃ進まねえし」
「あそこ居心地良すぎるもんね。わたしも古典と生物やんなきゃ」
「分かんないとこあっても頼りになんないしなー。そっちはいいよな。みんなして手伝ってくれんだろ」
うん、と頷くの声が、思っていたタイミングよりも少し遅れて返ってきた。鞄に教科書やペンケースを投げ入れていた手を止めて顔を上げれば、同じく帰り支度に取り掛かっていたはずの彼女は手を止めて立ち尽くしている。机の前に立つその背は、かすかに震えて見えた。
……思っていたより、重症、かもしれない。川崎隊絡みであることはほとんど疑いようがないものの、任務でやらかして叱られた、なんて軽い事態ではなさそうだ。
一体何が? 考えうる可能性を頭の中に並べながら、出水は控えめに声をかける。
「?」
「――あ、うん。なに?」
またしてもワンテンポ遅れて振り向いたの表情は、笑顔の手前で中途半端に固まってしまったような、ひどく不格好なものだった。出水と目が合うと、取るべき形を思い出したように普段の笑顔になる。……しかし、もう、遅い。
馬鹿だな、と思う。出水を相手に取り繕えたことなんか一度もないくせに。取り繕う必要だってないのに。
他の誰が騙されたって、出水だけは騙されない。騙されてやらないと決めている。でなければこの馬鹿は、ひとりで息を止めてしまうから。
「誤魔化すの下手くそなくせに笑うの、いい加減やめろよな」
突き放すような言葉は、しかしを甘やかす優しい響きをもっていた。出水は立ち上がって自分の机の端に浅く腰掛けると、「ほら」と手招きする。彼女はぱちりと瞬きして、それからどこかほっとしたような顔で出水の前に進み出た。作りものの笑みが残る頬を、出水は両手でむにっとつねる。
「レポート溜まってたのも、まあ、ほんとだけど。おまえのこと待ってたんだよ。――なにがあった?」
頬を捏ね回しながら聞けば、の眉がへにゃっと弱々しく下がった。平然を装っていた表情はすっかり歪み、吐き出した息は涙の気配を帯びて震える。頬を解放してやると、彼女の頭は支えを失ったようにこくんと俯いた。
「今日の、ミーティングでね、大事な話があるって言われて」
「うん」
「次のランク戦が終わったら、――解散、するって」
解散。その言葉に、出水は息を呑んだ。それから深く納得する。二年前から続けてきた今の部隊を、は心から好いていたから。
最初こそ年上ばかりに囲まれて萎縮していたものの、以前から交流のあるチームだったおかげか馴染むのは早く、オフも好んで一緒に過ごすほどによく懐いた。部隊のみんなで泊まりがけの旅行に行ったこともあったくらいだ。とくにオペレーターの山葉朱音とは同性ということもあって、姉妹のように仲が良かった。
「先週ね、本田さんが『この夏で辞めようと思ってる』って川崎さんに相談したらしいんだけどね。川崎さんもそろそろエンジニアに移ろうって思ってたみたいで。……川崎さんは、結構前から考えてたみたい」
部隊内で最年長の川崎は、今年で二十四歳になる。以前からトリガー開発に興味を示しており、の改造孤月も川崎の助言が多く反映されている。大学もトリオン研究を専攻しているし、開発室に呼ばれることもよくあったらしい。彼が前々からエンジニア転向を考えていたというのは自然に思えた。
万能手の本田は大学四年で、彼の実家は飲食店を営んでいる。跡を継ぐつもりがあるらしいことはから聞いていた。
「そしたらね、……三日くらい前に、朱音さんも支部に移ろうと思ってるって、相談に来たって」
すごい偶然だよね。無理に笑おうとする声が、痛々しくてならなかった。しかしそうでもしなければ言葉を続けられないのだろう。必死に言葉を紡ごうとするを、出水はじっと待つ。
「昨日、三人で話し合ったんだって。……わたし以外の、みんなで」
はそこで言葉を切った。自分だけが取り残されてしまう、その深い悲しみが、出水にも突き刺さるようだった。震えそうになる声を誤魔化すように何度か呼吸を重ねてから、彼女は再び話し始める。
「朱音さんは、今年度までは残れるから、……わたしが隊長引き継いで、二人でチーム続けて、三月までに、新しい子募集するのも、できなくはないよって……。でも、そうするとランク下がっちゃうだろうし、……お給料のこと考えても、解散の方が良いんじゃないかって、言われ、て、」
それきり声は涙に飲まれて、もう続かなかった。ぼろぼろと涙を零し始めたは、出水の鎖骨のあたりに額を押し付けた。じわりと涙がシャツに染み込み、出水の肌に張り付く。
大人しく身を寄せるに、出水はほっとした。
ここまで気落ちするのは久方振りだ。どうなることかと少し気を揉んだが、あとはもう、気が済むまで泣かせてやれば良い。
出水はの背に腕を回すと、彼女が思い切り泣くための言葉を口にする。
「ほら、もう我慢すんな。……おれが、隠しといてやるから」
歯を食いしばって堪えていた泣き声が、途端に堰を切って溢れ出す。優しく背中を撫でてやれば、は出水のシャツをぎゅうっと強く握りしめた。子どもの頃に戻ったような盛大な泣き声は出水の胸元に吸い込まれて、くぐもった声が教室の中で蝉の音と重なっていく。
抱きしめたの体から、嗅ぎ慣れない甘い香りがした。妙に落ち着かず視線を彷徨わせると、彼女の机の上に制汗剤のボトルを見つける。ああ、あれのせいか。頭では納得したのに、なぜか胸がざわついた。
薄い夏服越しに感じるの体は、記憶よりもずっと柔らかく、それから小さく感じる。二つに結んだ長い髪が、震える肩から一筋、さらりと落ちていく。窓から差し込む陽の光が、汗ばんだ彼女の項を照らして淡く輝いた。
自分の腕の中に、が、収まっている。
どきりと胸が高鳴った気がして、――出水は急いで視線を引き剥がした。窓の外に目を逃がせば、瞳を刺すような鮮やかな夏空が広がっている。眩しいほどに真っ白な入道雲を睨みつけながら、つとめてゆっくりと呼吸した。息を吐く。息を吸う。単純なこの動作を、初めて意識して行った気がする。
今更。今更、相手に、なにを?
胸に過ったものを振り払うように、出水は首を横に振る。呼吸を、繰り返す。速まっていく鼓動を誤魔化すように。胸に広がる熱を体から追い出すように。
だって、だぞ。ありえないだろ、今更。
兄妹のように育ってきた。手の掛かる妹のような、たまに姉のような、そんな存在だ。みっともないところも恥ずかしいところも知ってるし、知られている。異性だとかなんとか、意識する前からの付き合いなのだ。なのに今更。今更。
否定すればするほど、しかし身体の熱は上がっていく気がした。違う。そんなはずない。必死に否定の材料を探しているのに、これというものはなかなか見つからなかった。今更。そんな弱々しい言葉ばかりが浮かんで、どくどくと脈打つ心音に掻き消される。手のひらが汗ばみ、の制服を思わず握った。白いセーラー服。この布一枚隔てた先に、やわい彼女の体がある。見慣れたと、思っていた。けれどいつの間にか、ずっと遠くなっていた彼女の体が。
違う。違う。出水は再び首を振る。あついのは、きっと夏のせいだ。放課後になっても暑さの引かない真夏のせい。古い木造でエアコンはおろか扇風機すらない、この教室が全部悪いのだ。
他に、あつくなる理由なんて。
――出水が好きなのは、私じゃないよ。
ふいに蘇った苦い記憶に、出水は顔をしかめた。なんだって今、こんなことを思い出したんだろう。これも夏のせいだろうか、ああそうだ、そうに違いない。あの苦い失恋、そして岬隊の解散も夏だった。そしてきっかけは、泣きじゃくるりか子を慰めたこと。今のように。だから勝手に思い出して、その上、勘違いまで、しそうになって、……。
ごくりと呑んだ息の音が、妙に自分の体の中で反響した気がした。頭の中に散らばっていた記憶が、胸の中に転がっていた感情が、ふと、繋がっていく。
あの時、彼女を抱きしめてしまったのは、泣いてばかりいた幼馴染を思い出したからだった。
泣いてばかりいた。しかし次第に涙を捨てて、出水の手を必要としなくなって。いつの間にか、出水ではない男の背中を追うようになった、幼馴染を。
岬隊の解散が告げられた日の夜、久しぶりにと二人きりになった。
おいしいものでも食べに行こうよ、なんて平然と笑いかけるに無性に腹が立って、一人にしてくれと、乱暴に手を振り払った。泣くか怒るかして引き下がるだろうと思ったのに、はそのどちらでもなく、静かに出水の目を見つめた。
「わたしが泣いてるとき、泣きたいとき、いつもそばにいてくれたでしょ? だから公平が泣きたいときは、わたしも、なにか返したい。……ほんとに、ひとりがいい?」
本当に、一人になりたいのか。そう問われたら、途端に分からなくなってしまった。何も言えずに立ち尽くした出水の手を引いて、は人気のないベンチまで連れ出した。黙りこくったままの出水を座らせると、彼女は出水の頭をやわらかく抱きしめる。
「泣いて、いいよ。わたしが隠してあげるから」
それは泣けなくなったのために、出水が用意してやったセリフだった。泣き虫だった彼女が、大切なものに触れるような優しい声で、その言葉を囁くから。棘のように胸を刺していた苛立ちが解けて、代わりに涙が溢れ出した。彼女の腕の中が落ち着くことに、出水はその時初めて気が付いた。
ひとしきり泣いたら随分と気持ちが晴れた。大泣きしてはころりと機嫌を戻していたの気持ちが、少しだけ分かった気がした。彼女は出水の頭を解放すると、今度は膝の上に投げ出されていた手を取ってぎゅっと握りしめる。
「わたし、頑張るからね。今まで公平に助けてもらったの、返せるくらい、頑張るから。風間さんにはまだまだって怒られてばっかりだけど、でも、いつか……いつか、公平に追いつけるように、頑張るから」
だから辛い時は、自分を頼ってほしい。きっと頼られる自分になるから、見ていて。はそう言って笑った。
「……なんだよ、それ」
ずっと、このまま遠のいていくのだろうと思っていた。離れていくばかりなのだと。風間ばかり追いかけて振り返りもしない幼馴染は、もう自分の手なんて必要としていないのだと、そう思っていたのに。
はその先に、出水の背中を見ていたのだ。置いていかれまいと必死に走っていた。出水だっての背を見ていたのに。
みごとにすれ違っていたことに気が付いたら、どうにもおかしくなって、出水は声を上げて笑い出した。
「もう、笑わないでよ、本気なんだから!」
少々ずれた憤慨をするがなおさらおかしくて、しばらく笑いは引かなかった。
過去に沈んでいた意識が、真夏の教室に引き戻される。ぬるい夕風が肌を撫でる。蝉の音が鼓膜を揺する。出水の腕の中には、泣きじゃくるがいる。
――出水が好きなのは、
あの日のりか子の言葉が、今、ようやく出水に届いた。
おれが、好きなのは。
じわりと首筋に熱が込み上げた。思わず腕の中に視線を落とすのと、いつの間にか泣き止んでいたが胸元から身を起こすのは同時だった。伏せられた睫毛に涙の粒が残って光っている。散々泣き尽くしたおかげで真っ赤に染まった頬は痛々しいくらいなのに、どこか煽情的でもあった。涙の余韻に頼りなく震える唇に、息を呑む。はたりと瞬くのが、まるでスローモーションのように目に焼き付いた。が、瞼を持ち上げる。出水を見上げる。
かっと熱が顔まで上りそうになって、出水は急いでの頭を自分の胸に押し戻した。驚いたような声が上がっても、手を離すわけにはいかなかった。今、この顔を、に見られたくない。見られたら、目が、合ったら。そこから全て漏れ出して伝わってしまう気がした。
もう、夏のせいだなんて言えない。この顔のあつさは、のせいだ。出水の胸を満たすのも、鼓動を速めるのも、出水がずっと、この腕に収めたかったのも、全部、全部だった。
ずっと、だったのだ。