「もおっ、茨くんのばかっ! 知りませんからねっ!」
 わざとらしく「ふんっ、ですよ!」などと言いながら顔をそむけたは、しかしすぐに様子を伺うように片目だけそろりと茨に向けた。茨と目が合うと、誤魔化すように咳払いしてもう一度眉を釣り上げ直す。
 私は怒っていますよ! とっても怒っているのです!
 全身でそんなふうにアピールしているつもりらしいが、生憎とさっぱり迫力が感じられない。自らの怒りという感情に不慣れなせいか、どうにも怒るのが下手くそなのである。台本を与えられれば鮮やかな怒りを演じ分けることもできるのに、素の感情となると途端にこうなのだから不思議である。
 茨が笑いを噛み殺し微かに肩を震わせているのをどう受け取ったのか、は胸の前で組んだ腕を自分の指先で不安そうに撫でた。それからつんとすましていた表情をすこしだけ崩し、ちらりと茨を視線だけで見上げた。
「えっと、でも、茨くんが……、本当は、ちょっぴりでも反省の気持ちがあるなら、……チャンスをさしあげます、よ?」
 自分で怒り出したくせに早々に耐えきれなくなってしまうのが、なんとも彼女らしかった。「ちょっぴりでも」の言葉を添えたのは、彼女の優しさがそうさせたというより茨の性格を考えてのことだろう。しかし、出会ってから数えればそれなりの年数が経つというのに、彼女はいまだ七種茨という人間を理解していないらしい。ちょっぴりの反省、なんて中途半端をするくらいなら、はじめから実行に移したりはしないのだ。
 とはいえ、の示す「チャンス」というものに茨は興味があった。普段から茨に対してなにかを望むことが少ない彼女だ、秘された願望を知る良い機会だろう。
「おお、この七種茨にチャンスを与えてくださるとは! まるで女神のごとき慈悲深さに涙しそうです! さんのお許しをいただけるのなら、仏の御石の鉢でも蓬莱の玉の枝でも、なんでも捧げましょう!」
 いつもの大仰さで返せば、はほっとしたように自身を抱くようにしていた腕を解いた。そして茨をじっと見上げる。
「本当に、なんでもしてくれるの?」
「ええ、もちろんですとも。自分があなたに嘘をついたことがありますか?」
「……いっぱいあります」
 二人が出会った数年前から、七種茨の言葉には嘘しかなかった。恋人という関係になった今であっても、茨はに真実を約束しない。必要があれば嘘をつくし、秘密を作りもする。これからもそれを変えるつもりはないし、変えようと思ったこともない。
「はっはっは! そうでしたな!」
「笑いごとじゃありませんっ!」
「でも、それでもいいと言ったのはさんでしょう」
 いくら嘘を重ねても、秘密を抱えても、自分が愛する人はさんだけですよ。
 時折茨が溢すそれが真実かどうかさえ、には確かめる術がない。真実であってほしいと願うことしかにはできないし、ただ信じることしかできないのだ。それでも、嘘に塗り固められた男を愛すると決めたのはだし、茨の手を取ったのもだった。
「うん。だから……信じるよ。茨くんのこと、私は信じてる」
 茨の望むものだけが、にとっての真実で現実だから。だからは、茨が与える言葉だけを信じ続ける。茨がそうであれと望むなら、たとえ嘘でも構わない。茨の紡ぐ数々の嘘は、の中でだけは本当になる。
「それで。さんはなにをお命じになられるのか、お聞きしても?」
「あ、そうだった。えーっとね……えっと、なんでもいいんだよね……?」
「はい。最愛の恋人の望みです、なににかえても叶えてみせましょう!」
 にこりと微笑む茨に、はどこか落ち着かなそうに息を吐いた。それから意を決したように顔をあげ、茨のシャツの裾を軽くつまむ。
「き、キス……してほしい、です」
 言葉が終わるよりもはやく、は顔を俯かせてしまった。髪の隙間から覗く耳が赤く染まっている。きゅ、と服をつまむ指先に力が込められた感触に目を落とすと、彼女の指先がかすかに震えていた。
 茨はのつむじを見下ろしながら、ほとほと目の前の女の無欲さに驚いた。高価なものと願われる、などとは思っていなかったし、せいぜいしばらく嘘をつくなとか、次のデートはここに連れて行ってほしいとか、そういうささやかな願いだろうと予想を立てていた。しかし、実際に提示されたのは予想をはるかに下回るささやかさである。
 どうにも形容しがたい感情が胸を塞いで、茨は小さく息を吐いた。他にその感情の吐き出し方が判らなかった。
さんが望むのなら、もちろん」
 茨はの手を包むように握ると、もう一方の手をの頬に差し入れて顔を上向かせる。泣き出す寸前のように潤みきった瞳が茨を見上げた。
「……いいの?」
さんこそ、こんなことでいいんですか? 自分を思うままにできる、またとない機会かもしれませんよ」
「こんなこと、じゃないよ」
 ほどけるように微笑むに、茨はまた、胸が塞がるような感覚を覚えた。茨はそれを誤魔化すように肩を竦める。
「相変わらず欲がないというかなんというか。どうしてこの生態でここまで生きてこられたんでしょうねえ」
「茨くんに拾ってもらえたからかな? ふふ、私ってすっごく幸せものだね」
「……そうかもしれませんね。なにを幸福と感じるかはひとそれぞれですし、ええ」
「茨くんは、いま、幸せ?」
 己の手に掴むには、世界はどこまでも広く大きすぎる。願いを叶えるにはなにもかもが足りていない。
 それでも、大切なものは見つかった。墓の下まで持っていきたいと思えるもの。きっと、共に眠るのだろうと思えるひと。
「ええ。幸せですよ」
 嘘ばかり紡ぐ唇が、恋人のものと重ねられる。世界でただ一人、彼のすべてを信じる彼女がいるかぎり、毒蛇の吐く嘘はほんの少しだけ、真実のままでいられた。

嘘も真も君次第




Up:2020.12.19
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