淡く色付いたまろい頬に手を添えれば、彼女はうっとりと瞼を下ろす。ゆるく結ばれた唇は、茨を誘うように艶めいていた。顔を近付けると、彼女の姿は茨が作る影にすっぽり収まってしまう。
 頬に添えた手をゆっくりと首筋へと撫で下ろすと、は擦り寄るように茨へ身を委ねた。躊躇いなく多くの愛を語る彼女の唇は、しかし口付けるのは苦手なようで、いつだって茨に主導権を明け渡すのだ。
 顔を少し傾けて、彼女の身体を自分の方へ引き寄せる。その一瞬、茨はいつも同じことを考える。初めて唇を重ねたときも、きっと似たようなことを考えていた。
 この、首筋に添えた手を、少しだけずらしたら。そしてそのまま、ひとおもいに力を込めたら。彼女の呼吸を、息の根を、文字通りこの場で奪ったとしたら。彼女は怒るだろうか。悲しむだろうか。誰よりも信頼し、深く愛した男に殺されようとするとき、彼女のおもてにのぼるのは、いったいどんな感情だろう。
 恋人の裏切りに怒る姿も、涙する姿も、茨には想像できなかった。というよりも、彼女は怒ることも悲しむこともないという静かな確信があった。という人間と出会ってから今までのすべてを鑑みたとき、彼女が取るであろう行動はひとつしか考えられない。茨はそれが、ずっと恐ろしかった。
 全てを失った彼女に手を差し伸べたあの日から、彼女のすべては茨の存在で満たされた。そうなるように仕向けた自覚はあれど、茨の想定以上に毒は彼女の全身を巡り、彼女はすすんで茨だけをその瞳に映し続けた。
『私のすべては、あなたの望みを叶えるためにあるんです』
 いつだったかに、彼女はそう言って微笑んだ。なにを馬鹿なことをと内心で笑い飛ばしたけれど、――思い返せば、あのときも確かに、奥底には恐怖があった。毒で満たしたつもりのこの女に、侵食されているのは自分なのではないか、そんな恐れがかすかにあった。
 あの日の恐れは今、泡沫の悪夢となって茨の眼前に現れては消える。彼女に触れるたび悪夢は首をもたげ、冷たく牙を剥く。
 ――私のすべては、あなたの望みを叶えるために。
 茨の願望機たらんとする彼女が捧げる愛は、はたして彼女の奥底から真に湧き出るものなのだろうか。茨の望みを映しただけの偶像でないと、誰が否定できるだろう。
 茨の願望機たらんとする彼女は、きっと茨の齎すもののすべてを受け入れる。
 それがいまは愛であっただけで。だから愛を返しているだけで。
 それが死に変わったとしても、おそらく彼女は――。
「…………茨くん?」
 その声で我に返り、茨は自分の手を見つめた。このまま力を込めれば容易く彼女の命を奪ってしまえる、自分の左手に。
「すみません。キスを待つさんがあまりにも愛らしかったもので」
 茨はにこりと笑みを貼り付けながら、その手をの後頭部に回した。
「待ちきれずに目を開けてしまうところも、非常に可愛らしいですよ?」
「もう、すぐそういうこと言うんだから」
 恥じらいに顔を赤らめるさまはいじらしいが、……しかし、と考えてしまう自分がいる。茨はそんな思考を振り払うように目を閉じた。鎖された視界の向こう側で、も息をつめる気配がする。
 そのまま顔を落として唇を重ね、柔らかい彼女の唇を食む。舌を絡めて唾液を流し込み、彼女の呼吸を奪い取る。角度を変えて何度も噛み付いては、合間に漏れる彼女の声を摘み取った。
 それでも必死で応えるの舌が、縋るようにシャツを掴む指先が、茨への愛を囁いている。肌から伝わる彼女の愛は、己の望みを映し出した鏡像か、それとも。
 愛知らぬ毒蛇には、真なる愛など解り得ない。自らに巣食う激情が『愛』と名付けていいものかすら、まだ解っていないのだから。
 ……好きだよ、茨くん。大好きよ。
 彼女の紡ぐそれが、己を満たすそれが、判然とするまで、彼は繰り返し牙を立てる。噛み付き咀嚼し飲み込んで、腹の中で溶かしきり、その正体を解き明かさんと。
「すき、ですよ。さん」
 酸欠でぼんやりした様子のは、それでも茨の言葉を聞き取ると蕩けるように微笑む。
 潤んだ彼女の瞳には、愛に毒された男が映っていた。

鏡像の
キスキル・リラ

キスキル・リラ




Up:2020.12.19
photo by Gabriele Motter on Unsplash
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